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2023/03/24 19:00

日本人なら誰でも名前は知っているであろう「桶狭間の戦い」。実際はどんな戦いだったのでしょうか?


「桶狭間の戦い」は織田信長と今川義元の戦いです。現在の静岡・神奈川を治めていた今川義元が、織田信長が治めていた現在の愛知に攻めてきたことで始まりました。

織田の兵力は3000~5000人。対する今川の兵力は2500~45000人もあり、兵力差は圧倒的でした。
行くつかの城を落とした今川義元に対し、信長はいくつかの砦を築くことで対抗します。このような動きを阻止すべく義元は1560(永禄3)年に国境の沓掛(くつかけ)城に入城します。義元の命により松平元康(のちの徳川家康)は砦を落とし、信長は義元への応戦を決意します。

出陣前の清洲城において信長は「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」というフレーズで有名な幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」を舞います。3,000という少数の兵で進軍した信長軍は、相手に気づかれることなく桶狭間で休息中の今川義元本陣を急襲しました。この際先遣隊が敵を引き付けて、残りの2,000の兵で本陣を攻めたのです。この時、空が曇り大風雨が起こります。敵の攻撃拠点を落とし安心していた義元ですが、豪雨が止んで視界が開けると信長軍が目前に迫っており、急いで陣を引き払い退却します。しかしこの退却の混乱の最中、義元は討ち取られてしまいます。

これが大まかな「桶狭間の戦い」の流れです。今川軍は数が多く、兵を分散させていたので「桶狭間の戦い」で戦ったのは5000~6000人と言われています。それでも織田の2倍近い数があり、信長の奇襲がいかに有効だったかが分かります。