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2023/11/27 17:09
戦国武将に双子はいるのだろうか?
気になって調べてみると、徳川家康の息子・結城秀康(ゆうきひでやす)が双子だったようだ。
戦国時代の双子・結城秀康と永見貞愛(ながみさだちか)について見ていきましょう。
目次
「畜生腹」(ちくしょうばら)と呼ばれて忌み嫌われていた双子
家康の最初の側室となった母・於万の方
亡くなったことにされた永見貞愛
将軍になれなかった結城秀康
まとめ
「畜生腹」(ちくしょうばら)と呼ばれて忌み嫌われていた双子
戦国時代、双子の出身は忌み嫌われた。
当時の双子の出産は「畜生腹」と呼ばれ「一度に複数の子供を産むのは動物と同じ」とされていました。
そのため双子が生まれた場合、どちらかは隠す(捨てる、仏門に出す、死ぬまで幽閉)ということが一般的だったようです。
もしくは殺害することまであったようです。
家康の最初の側室となった母・於万の方
双子が忌み嫌われる時代に二人を生んだのは「於万の方」(おまんのかた)。
彼女は徳川家康が若いころに作った最初の側室です。
家康の従兄妹に当たると言われており、当時の正室「築山殿」(つきやまどの)の世話係だったと言われています。
そんな「於万の方」が家康にとって2番目の子供を出産します。
この子供が双子だったのです。
亡くなったことにされた永見貞愛
一説によると、弟は生まれてすぐに亡くなったとされている。
しかし実は亡くなったことにされ、密かに「永見家」へと養子に出したという説があります。
この説は知立神社に伝来する書物が根拠で、その書物によると知立神社の神職として31歳まで生きたとされています。
最後まで家康の子供とは認知されなかったようです。
将軍になれなかった結城秀康
一方の兄・秀康も母親から引き離され「中村家」の屋敷に預けられ、養育されました。
そもそも家康は双子を自分の子供だと認知しませんでした。
このため双子とも会わず、母親からも引き離したのです。
家康が秀康を認知したのは正室の築山殿と、その息子で長男の信康が亡くなったあとのことです。
時は流れ、本能寺の変のあと。
家康が敵対していた豊臣秀吉と和睦を結ぶ際に、人質として豊臣家に差しだされ豊臣家の養子になります。
長男の信康が亡くなっているため当時は秀康が嫡男であり、人質に送られるような立場ではないのです。
しかし自分の子供を人質にするのを嫌がった「於大の方」(おだいのかた)の影響もあり、秀康が人質となったのです。
このことからも秀康の立場は弱かったことが分かります。
豊臣家の養子となった秀康ですが、今度は豊臣家に臣従している結城家にまた養子に出されます。
秀吉に子供が生まれ、後継者に指名されたためです。
大名家をたらい回しにされた秀康ですが、結城家の家督を継ぎ大名となります。
その後関ケ原の戦いでは徳川方に付き活躍。
徳川家を除けば全国で2番目に高い石高をもつ大大名になります。
しかし「徳川家以外」でと言ったように家康の家康の次男でありながら、徳川姓を名乗ることはできませんでした。(既に結城家の当主なので当然と言えば当然なのですが)
家康が江戸幕府を開き、2代目に指名したのは異母弟にあたる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)でした。
ただ秀忠は秀康を兄として慕っており、幕藩体制の中でも特別な扱いをしました。
また実の弟・永見貞愛には手紙を送ったり、援助を行ったり交流はあったようだ
母親である「於万の方」とは、関ケ原の戦いのあとともに暮らしています。
秀康は27歳、於万の方は53歳。
ようやく親子で落ち着いて暮らすことが出来たのです。
しかし親子の生活は、わずか7年ほどで終わります。
秀康が、34歳という若さで亡くなったのです。
またその3年前には、弟の永見貞愛も31歳でこの世を去っていました。
まとめ
徳川家康の最初の側室の子どもは双子だった
弟は亡くなったことにされ養子に
兄の秀康は長男が亡くなるまで認知されなかった
秀康は徳川家から豊臣家へ、豊臣家から結城家に養子に出される