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2023/11/29 15:44
時代によって結婚観は変わっていきます。
現代では10歳くらい離れていれば年の差婚といわれるでしょうか?
この記事を書いているとき「ハライチ岩井さん(37歳)がタレントの奥森さん(19歳)と年の差婚した」というニュースがありました。
では戦国時代の年の差婚はどうだったのでしょう?
そもそも戦国時代の結婚年齢は早く10代で結婚することも多いです。
その為、正室と年齢差があることは珍しいです。
しかし側室となれば話は違います。
側室を含めた戦国武将の年の差婚を見てみましょう。
目次
豊臣秀吉と側室の淀君 年齢差・32歳~34歳
徳川家康と側室のお六 年齢差・53歳~55歳
柴田勝家とお市の方 年齢差・25歳
まとめ
豊臣秀吉と側室の淀君 年齢差・32歳~34歳
戦国時代でもっとも有名な年の差婚は、豊臣秀吉と側室の淀君でしょう。
茶々が秀吉の側室になったと言われるのは1587年ころ。
この時、1537年生まれの秀吉50歳。
1569年生まれ(説)の茶々は18歳です。
年齢は諸説あるので確かな年齢は分からないのですが親子以上の年齢差があったのは間違いないようです。
秀吉は淀君の親を殺しています。
淀君は親の仇の側室になっているのです。
その為この年齢差のある結婚も、何か企みがあったのではないかと疑いたくなります。
ちなみに秀吉の正室の北政所とも10歳程度、年の差があったようです。(秀吉が年上)
徳川家康と側室のお六 年齢差・53歳~55歳
徳川家康は側室が多いのですが、その中にお六という人がいます。
一説では彼女が家康の側室になったのは13歳の頃
対する家康は68歳で55歳差です。
親子の差どころか下手をすると、孫ぐらい年の差がある相手を側室にしているのです。
晩年の家康は他の側室も年のかなり離れた女性が多く、とにかく若い女性が好みだったようです。
柴田勝家とお市の方 年齢差・25歳
これまでは側室との年の差でしたが、次は正室との年の差婚です。
柴田勝家は織田信長の家臣です。
本能寺の変で信長が亡くなったあと、信長の妹・お市の方を正室に娶っています。
お市の方はもともと浅井長政に嫁ぎ3人の娘がいました。
しかし浅井家は信長に滅ぼされ、織田家に戻っていました。
そんなお市の方と勝家が結婚したのはお市の方は35歳、柴田勝家は60歳の時です。
年齢差は25歳あり、お市の娘もまだ幼いため勝家の元に来ています。
力を増す秀吉に対抗する意味合いもあった可能性がありますが、夫婦仲はよかったようです。
その後勝家は秀吉との戦に負け城で自害することを選びます。
勝家はお市に三人の娘とともに脱出するように言いますが、娘たちだけを逃がし自分は夫と自害する道を選択し共に亡くなります。
勝家とお市の方の間には子供はいませんでしたが、残された3人の娘のうち長女が先ほど紹介した淀君(茶々)です。
まとめ
豊臣秀吉と側室の淀君 年齢差・32歳~34歳
淀君は親の仇と結婚
徳川家康と側室のお六 年齢差・53歳~55歳
晩年の家康は若い女性好き
柴田勝家とお市の方 年齢差・25歳
お市の方の娘が淀君