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2024/02/16 14:55

前回に引き続き、戦国武将の二つ名をモチーフにした「武将スマホケース」を紹介しつつ、戦国武将の二つ名についてお話しします。

目次
【美濃の蝮】斎藤道三
【相模の獅子】北条氏康
【甲斐の虎】武田信玄
【越後の龍】上杉謙信

【美濃の蝮】斎藤道三

「斎藤道三」(さいとうどうさん)は行商人から下克上を果たし、戦国大名になった人物。
主に美濃(現在の岐阜県)を治めた。

そんな「斎藤道三」は【美濃の蝮】(みののまむし)と呼ばれています。

仕えた主を謀殺や追放などの手段で排除し、国を乗っ取った人物です。
そのことから毒のある蛇「蝮」(マムシ)と呼ばれるようになりました。
一国を丸呑みした毒蛇という訳です。

「斎藤道三」は分かりやすい下克上を果たした武将です。
下克上を果たした手段から狡猾で侮れない武将というイメージが付いて回ります。

一方で当時まだ「うつけもの」と呼ばれ侮られていた、若いころの「織田信長」の才を見抜くなど、先見の明がある人物でもあります。



【相模の獅子】北条氏康

「北条氏康」(ほうじょううじやす)は「武田信玄」や「上杉謙信」と競い合った戦国武将。
小田原城を居城に、主に相模(現在の神奈川県)を治めました。

そんな「北条氏康」は【相模の獅子】と呼ばれています。

その名に恥じない武功を持っており、36戦無敗。
全身含めて7つの刀傷があり、ひとつは顔にありました。
刀傷すべてが体の前面にあり、背中などの後ろにはありませんでした。
どこかの海賊漫画に出てくる剣士のようなエピソードに影響されたのか、江戸時代以降に【相模の獅子】という異名が付いたようです。




【甲斐の虎】武田信玄

「武田信玄」(たけだしんげん)は甲斐(現在の山梨県)を領地とした戦国武将。
上杉謙信とは宿命のライバルといえる関係で、川中島の戦いで5度も戦いました。

そんな武田信玄は【甲斐の虎】と呼ばれています。
当時から呼ばれいたわけではなく、江戸時代以降の歌舞伎や物語の影響でついた異名です。

もともと中国で実力が拮抗している2人の存在を「龍」と「虎」に例えることがあります。
このことからライバル関係であった【上杉謙信】を【越後の龍】と呼び。【武田信玄】を【甲斐の虎】と呼ぶようになったようです。


【越後の龍】上杉謙信

「上杉謙信」(うえすぎけんしん)は越後(現在の新潟県)を治めた戦国武将。
「義」を大事にし、「武田信玄」のライバルと言える存在です。

「上杉謙信」が【越後の龍】と呼ばれる理由は「武田信玄」の欄で説明した通り。
ではなぜ「上杉謙信」が「龍」で、「武田信玄」が「虎」だったのでしょうか?

答えは【おそらく特に意味はない】
たまたま「上杉謙信」が「龍」に配役されただけだと思われます。

というか歴史的事実を考えると「上杉謙信」が「虎」で、「武田信玄」が「龍」の方がしっくりきます。

「上杉謙信」は

「景虎」

「政虎」

「輝虎」

と名乗っている時期があり「虎]と呼ばれる方がしっくりきます。

一方の「武田信玄」は自分の朱印のモチーフに「龍」を使っており、「虎」より「龍」のほうがまだ馴染みがあります。

ですが、「上杉謙信」が「龍」で「武田信玄」が「虎」のいうイメージは強いです。

私の感想ですが、「上杉謙信」の「義」を大事にした神聖さが「龍」のイメージにピッタリですし、「武田信玄」のワイルドな甲冑姿が「虎」にピッタリだと思います。

「歴史的事実」と「広く広まったイメージ」。
どちらも大切で、それぞれ楽しむのが良いと思います。


今回はここまで。
また次回お会いしましょう。